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2006年08月22日

●なぜか子育てについて

 子どもを育てるというのは、ある意味人生で最もやり甲斐があるのかなと思った。たまたま長野県に行ったときに、3つの家族と一緒にいたことをきっかけに考えたことを書いてみたいと思う。かなり長い文になってしまいましたが、興味がある方はどうぞ。

 人生のやり甲斐を、これまでの自分は一貫して“仕事”に求めてきたように思う。仕事というのは、間違いなく人生のやり甲斐の大きな部分を占めるものだと考えている。もちろん、そう思っていない人もいるではあろうが、少なくとも私はそういう気持ちで働きたくはない。今の職場に対しても、相当言いたいことはあるし、もう辞めてやると思ったことは何度もあったけれど、落ち着いて考えたときに、そのやり甲斐を感じられる部分があったからこそ、ここで切り替えて突っ走ってみようという結論を出せた。
 その、やり甲斐の元となっているものの一つは、対価を得られる点だ。世の中金が全てという意味ではないが、自分がやった何かに対して評価が行われ、言葉や気持ちという抽象的なものではない、現実的なお金が支払われる。自分の価値を、もちろんそれは現金という物差しではあるけれど、はっきり認めてもらえる場なのである。他人に認められることは、生きている大きな歓びの一つであり、大きく言えば、その積み重ねがこれまでの自分を作ってきたし、今後の自分をつくてくれる。だからこそ、人は仕事に生き甲斐を求めるし、最近では、どう働くかということについての関心も高まってきているのではないだろうか。
 仕事を極めれば極めるほど、一般的には自分の裁量が増えてくるし、それに応じて責任も大きくなり、原則論としては、対価も増える。それがまたやり甲斐となって、ともすれば見分けが付かなくなってしまう日常に、刺激や変化を与えてくれる。そして、ある程度自分自身の方向性=生き方と重なってくる。そういう働き方は、間違いなく自己実現という、生物の中でも最も人間らしい欲求を満たすことにつながるだろう。自分のなりたい自分になる、そのための限られた方法の内の一つが、仕事なのである。少なくとも、今の私はそんな風に考えている。

 仕事というのは、常に期限のある活動とも言える。どれだけ大きなプロジェクトだろうと、段階ごとの区切りや、第一次計画の終了期日は決められている。そういう区切りをつけることは、人間の集中力や能力を発揮させるために、有効な手段だ。例えば、村上春樹の短編小説「プールサイド」の例のように。
 また、仕事にはオフがある。気持ち的にはとか、次の仕事がとか、明日も早いしとか、そういうことはもちろんあるが、一般論として語るのであれば、休みの日があるし、一日の終わりにビールのグラスを傾ける一瞬は(会社が勤務中の飲酒を認めている会社でなければ)、仕事から切り離される。こういうメリハリもやはり、やり甲斐のある活動をするための有効な手だてだ。
 そしてまた、仕事は変えられる。現実的なしがらみはともかく、論理的には転職は自由だし、今パソコンを売っている人が、明日から喫茶店を経営しはじめたとしても、特別問題はない。本当に自分に合った仕事を求めて、いくつもの職を渡り歩くことだって、それで成功する人は限られているかも知れないが、自由だ。
 仕事についてさらに述べれば、多くの場合仕事とは計画が肝心になる。行き当たりばったりで何でもうまくいくということは、普通はあり得ない。もちろん、計画通りに行かない事もあるわけだが、それでもとにかくいろんな情報を集めたり、シミュレーションを行ったりして、現実的な形を作り、それを遂行するという構造がある。これが首尾良く進んだときは、大きな満足が得られるし、失敗したって(軽々しく口にしてはいけないかも知れないが)そこから何かを学び、次につなげることが出来る。
 そのほか、仕事を通じて出会う人とのつながりや、自分自身の知識や技術の向上、結果がその先の第三者にもたらす価値やそこから戻ってくる感謝、そして治めた税金の行く末……これは微妙?など、本当にたくさんの事が働くことで得られるのである。

 人間は弱いから、やはり他人から認めてもらえないと前に進めなかったり、失敗を糧にする余地がないと踏み込めなかったりする。少なくとも自分自身はそう思っている。そういう“人間”あるいは“自分”にとって、他のいくつかの趣味よりも、やはり働くことが人生のやり甲斐の上位に来るのは当然だと思う。もっと良い仕事がしたい、そして結果を出して色々なことを得ていきたい、そういう思いを何歳になっても持ち続けたいと、どんなに自分が落ちぶれても、その気持ちだけは忘れずにいたいと、強く思っている。

 ところが、何組かの家族を見たことで、もしかしたら子育てというのは、仕事よりもずっと難しく、そしてその分だけ大きなやり甲斐を得られる活動なのかなと思った。現実にそのまっただ中にいる人にとっては、活動なんて言葉を使ったら、怒鳴りつけられるかも知れないけれど、でも仕方ない、未経験なんだから。

 例えば、子育てには現金的な見返りはない。子どもの笑顔とか、成長していく過程が嬉しいとか、どちらかといえば純粋な、精神的なものに支えられて行う活動だ。また、仕事についての考えで述べたいくつものことが、ことごとく認められない。区切りなんてないに等しいし(例えば子どもが結婚して自分の家庭を持ったから、その後は一切関わらないという人は希だと思う)、オフももちろんない。当然ながら子育てがうまくいかないから、子どもを替えるなんてことは出来ないし、これは古い考えかも知れないけれど、環境=家庭をチェンジすることもハードルが非常に高い。
 計画だって、立てないこともないだろうけれど、その通りに遂行することが全てではないので、うまく行ったか行かないかの判断も出来ないし、失敗があったときにも、その続きまで全て自分(たち)で責任をもたなければならない。人とのつながりは、もちろん作ることは出来るが、仕事でのそれとはちょっと異なるし、知識や技術の向上があったからといって、それが、例えば二人めの子どもにきちんと生かせるかというと、やはり簡単にはいかない。

 それでも、世の中には多くの子どもたちがいるし、子育てをしている人がいる。誰かに強制されてという事ではなく、また、少なくとも今の日本において言うならば、種族保存がどうこうという理由ではなく、自身の人生の選択として、子を持ち、育てている。それってつまり、他に代え難い歓びややり甲斐があるからなのではないか、そんな風に感じたのだ。

 現金とか、評価とか、オフとか、そういうもののない世界に挑戦するというのは、究極的なやり甲斐がなければ簡単にできることではないと思う。自分の今の精神構造から考えれば、そこに本気で取り組んだとしたら、きっと仕事なんて目じゃないくらいのやり甲斐があるのではないだろうか。別の言い方をすると、そもそも、困難のないところに楽しさはないと思っているし、一般的には、達成する歓びとそれに至るまでの困難の長さや大きさは比例すると考えている。となれば、仕事よりよほど困難が多い子育てには、何かものすごいやり甲斐が、人生における最大の歓びが、あるのではないだろうか。

 しかし、そうまで考えてもなお、自分が子どもを持つことに対する抵抗のようなものはある(まず相手を探せというのは、このさい置いておく)。仮に再婚をしたとして、「子どもは何人欲しいですか?」と聞かれたら、相当返事に困ると思う。
 ちょっと話は変わるが、割れるとか終わるとか、くだらない禁忌句が多い結婚式なのに、なぜああいう無神経な質問が許されているのか疑問だ。罪はないと思っているというか、むしろ祝福しているつもりなのかも知れないが、当事者や参列者の誰かを傷つけてしまうことにもなりかねないと思うのだが、考えすぎ?
 自分には、今子育てをする能力はないと思う。能力がある人だけが踏み込める領域だという考え方は間違っている気もするけれど、でも思い切れる自信は全くない。自分一人もてあましているのに、自分が一番で、自分を認めてくれる人を、自分が認められる出来事をいつも追い求めてしまっているのに、出来るわけがないと思う。

 ただ、そういう考えは以前からあったにもかかわらず、今回一回り年上の方の家族(中学生と小学生の娘さんがいる)、一人めの1歳ちょっとの娘のいる家族、そして3歳と1歳の二人の娘を持つ家族の様子を、ほぼ同時にのぞいたことで、自分の中に何かが追加されたような気になった。今までも、友人の家族と会う機会はあったけれど、こんなことを書いてみようと思ったのは、今回が初めてだ。

 自分はある意味不器用なので、何でも理屈で考えてしまうところがある。でも、それが悪いとは思っていないし、考えないことには何も始まらないという持論も譲れない。もちろん、そういった持論を、関わる全ての他者に全部伝えるかは別であるし、さらにいうと、その理論と自分の行動も別であることの方が多いが、そこまでひっくるめて自分なのである。それはもう、どうしようもないくらい、自分なのである(だから離婚するとも言えるが、このさいそれはどうでも良いや)。

 短い時間ではあったけれど、自分にとっては非常に充実した時間を駒ヶ根で過ごせたという意味の一部には、このことが含まれる。だからといって、何が出来るわけではないけれど、そういう気持ちにさせてくれた友人たちに、深くお礼を言いたい。そして、今回会った人たちだけでなく、全ての子育て中の友人および(駒ヶ根から帰宅したときに、親と久々に会ったことも影響している気がしてきたので、唐突ながら)両親を見て、「親って凄い、もうそれだけで尊敬する」と、思ってしまったことを、告白しておきます。

 いつか時間が経って、この文章を読み返したときに、どんな自分になっているかはわからないけれど、2006年のこの瞬間は、そんな風に考えていたんだということを、記録しておきます。

 さて、真面目に書きすぎたのでオチをつけますが、でも子育てにもたまにはオフが会って良いかなと、不良の35歳は思うわけです。だから、いつも酒飲んでる話ばかりしていたり、飲み会の誘いばかりしていたりする私を、そんなに怒らないでね。そして、たまにはつきあってくださいね。ある意味、オフをもたらす幸福の使者かも知れないんだから、ボクチンが。

 付記

 子どもを持つということについて、この文章の最大の欠点は、結局自分の視点からしか物が言えないことですね。というのは、仕事との最大の違いは、一人では絶対に出来ないことというのがあるはずなのに、それについて述べられていない。当然ながら、それが離婚の大きな原因なんだと思う。これは私だけの話ではなく、当時の妻も含めて。
 だから、やっぱり今の自分には、親になるというイメージを持つことは出来ない。というか、あまりにも自分が自分大好き人間であることに改めて気づいて、ちょっと自己嫌悪になりかけたので、気分転換に生ビールでも飲みに行ってきます。やれやれ。

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